オランダのイエナ教育プラン第一人者、リヒテルズ直子さんのオンライン対談を聞きました
広島県で公立のイエナプラン教育小学校開校があったり教育手法に注目されている、
オランダのイエナプラン教育の第一人者、リヒテルズ直子さん。
以前オンラインでお話を伺った際に感動したのですが、
昨日教育コーディネーター/人権教育・シティズンシップ教育ファシリテーターの武田緑さんとのオンライン対談を聴講しました。
※公開録画のURLはこちらです→ (1) 『読んで旅する、日本と世界の色とりどりの教育』出版記念 武田緑×リヒテルズ直子トークイベント – YouTube
感銘を受けた言葉が多く、長文ですが、以下、共有します。
◆一人一人の子どもにとって、その子にあう教育は
外から押しつけるものではない。その子によって違う。
国のなかにいろいろな教育がありそれを選べることが大事と気づいたのがオランダ教育。
そして、一番大事なのは、色とりどりであればよいだけではなく、子どもの人権を守ること。
最終的には学校が子どもたちの市民権を育て、子どもたちを自立した市民にしたい。
なぜイエナプランにはいりこんだかというと、多様性をとても大事にしながら子どもを育てており、同時に市民性教育、シチズンシップ教育に力をいれているため。
◆スケジュール的にもルール的にもぎちぎちになると、子どもたちを圧をつかってコントロールしないとまわらなくなるため、そうならないような仕組みが必要。
マインドもそうだが、時間や空間やルールなどシステムを組み替えていくことでよりwell-beingな環境になるのではないか。
・システム(例えば校則)が先にあり、人がそれにあわせる。
ルールがこうなっているから、あわせられないのはあなたのわがままだと。
しかし、本当はシステムは人のために運用するもの。
そこも逆転してはいけない。
・また、日本の教育現場の環境としては、先生たちの道具が少なすぎる。
先生がこどもたちと多様に関わりたくとも、教材の多様さが少ない。
◆日本で環境を変えたい教員がいても、周りと齟齬が生じてしまう状況については、
言葉にしないといけない。
相手を説得し、対話を続ける。
なぜ脳科学の研究をオランダやアメリカで使っているかというと
自分たちがやっていることの根拠を掴もうとしている。
そううい議論の仕方が日本に必要なのでは。
◆教育といっている以上、どの子も学習しなければならない何かがある。
私たちも含めて、世の中にいろんなことが起きているなかで自分がどう生きていくか、世界を自分なりに取り込むことが学ぶということ。
自分なりに世界をとりいれながら自分の機能はどこにあり、どうしたら社会に関われるか考えているのが大人であり、
大人は子どもたちに自分が経験したことを与えなくてはいけない。
◆子ども中心主義だからと子どものしていることをそのままに手をひく先生がいるが、これは違う。
自分の自由とあわせて、他の子の自由も大事にしないといけない。
社会にでたときに疎外者になってはいけない。
つまり、子ども中心主義でも枠組みがないと全く意味がない。
環境を整える。選択肢を用意する。迷っているとき声をかける。
フィードバックをする。
子ども中心主義でもやらねばなことがたくさんある。
◆自分づくりというものもでてくる。
とくにwell-beingは自分づくりがとても大事。
自分づくりと他者を受け入れるのは、コインの表と裏。
他の人がいて、その人を受け入れているとき、はじめて自分がみえてくる。
そこが違いを受けられない、あるいは協調して動いている人たちには一番苦手な部分。
人にあわせるための他者ではなく、自分はこうだけどあの人はこうだとおもえる自分がいないといけない。
◆欲求(たべたい眠りたい、近づきたい)と好奇心(今ここで何が起きているか)が自己表現である。
学びは世界を取り入れることだが、
世界について学びたい、一番根本にあるのが好奇心。
この好奇心をどうやって大事にしていくか。
先生に伝えたいことは、好奇心に対して注意深く関わってほしい。
例えば、皆でうさぎの絵をかきましょうとか、指定図書でプレゼンテーションでは、内発的好奇心は活かされない。
ルソーは、教師が好奇心を阻害しないよういっている通りである。
大人は余計なことをして、子どもたちは学ぶ意欲があるのに、つまらない人間になっていると。
◆本物って何か。
自然にあるものだけが本物か。
私たちがうみだしてきた知恵や文化も本物。
例えば、いろんな危険がある状態も本物の状態。
子どもに主体をおいた危険との関わりは、子どもに責任を持たせることにも非常に繋がる。
失敗がおきたとき、子どもたち全員とはなす場をうみだすのが大人の仕事。
本物の世界の危険、あってはならないものを
子どもたちに深く考えさせる時間をもつ。
◆市民性シチズンシップについて考えるとき、日本は自由や主体性をよくいう。
でも市民性の一番大事な点は何かというと、社会に自分がどう関与していくか(エンゲージメント)。
自分はその社会の一員であるから、社会で起きていることに対して目をそむけてはいけない。
その意識を子どもたちに持たせるものが市民性教育。
単に自分が自由に主体的に行動するというものではなく、
社会で起きていることが自分はどう考えてもおかしい不条理なことと思ったとき、
どうアクションを起こすかの態度。
私には関係ないといったり、
この世界はいやだから自分の部屋にこもるのではなく
関わっていくことが本物に繋がる。
いまおかしいと思うことの責任を引き受ける。
例えば、フィンランドのいじめ教育では、いじめの加害者と被害者のあいだにいる、どうでも良いといっている子を動かさないといけない。
市民性教育はまさにそこである。
政治家がこういっている、反対運動している人がいる、
自分としてはどちらかというとこっちだが、生活はうまくいっているからという状態では、世の中はかわらない。
大多数をどう変えていくかに、市民性教育の核がある。
自分が意図してこんな社会をつくっていないかもしれないが
社会の一員である以上、こうなることの責任を引き受けることが重要。
引き受けた瞬間変えていけるし、
希望がうまれる。
希望とともに自分の生きがいがみつかる。
幸せとは、社会のなかで自分が受け入れられ
(お金儲けの意味でなく)仕事があることだと思う。
世の中がいちミリでもよいから誰かが安らぎを感んじたり、安心感を得られ、
そのために自分が動いたことが生きがいになるのでは。
特に学校の先生にお願いしたいのは、自分の生活が傷つかないよう、また、自分にストレスが生じないようにするため、規則どおりに仕事をすることをやめること。
規則通りで仕事をやらされているのではなく、「子どものため」ににたちもどる。
何のために教師になったか。
子どもたちの幸せのためという原点にもどる。
たった1人の子どものためでいいから自分が盾になってあげたとき、教師になったかいがうまれる。
そのときのストレスはやらされてるストレスではなく、希望のあるストレスではないか。
◆一人ひとり違う考えを持っている。
良い悪いの判断がみなちょっとづつ違うが、その人にはその人の立場があり、
おかれてきた環境や文化や、今の生活様式がある。
「その人にとってはそれしか立場がない」のが私たちみんな。
だからそれぞれの人の選択や行動は、その人自身の良心に照らして決めないとおかしい。
それをやめさせるのが画一一斉授業だし、上からの管理。
学校の先生には自由になってもらいたい。
先生が自分の良心にてらして深く考え、なぜ自分はこの行動をとるのかと率直にだせる状態にしないと、子供たちが不幸になる。
そこが管理教育の大問題。
先生に授業を与えて、先生が教え方の自由を受け取るのは、自分の選択に責任を持つこと。そのためには先生が自分の内側の良心にとわないといけない。
だから管理教育をやめ、自分の良心で教育を行える原点に。
◆第三者がはいった学校指導は大事だが、
深くスキルを学んでいない状態で安易にファシリテーターをすることには非常に危機を感じる。
まず学校の先生に考えてもらいたいことは、校長からグループリーダーになること。
校長がまず自分の仲間の個性を認め、良さを引き出すリーダーになってほしい。
それではじめて子どもに同じことができるはず。
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対談をすすめながら、冷静に物事の本質を見抜き、すぐに言語化していくリヒテルズ直子さんの力が相変わらず素晴らしかったです。
武田緑さんの様々な教育現場をまわってのおはなしも示唆に富んでおり、
良質の哲学対話を聞いているようでした。
コロナ禍の時代、デジタル化・AI化が進む時代。激変する世の中です。
子どもたちのタブレット活用も本格的に始まりました。
教育を通じて子どもたちに何を授けどんな大人になって幸せに豊かに生き、
社会を担ってもらいたいのか、
そのぶれない軸を具体的に考えて、
軸を常に確認しながら教育手法を考える必要があること実感しました。
※武田緑さんは、スクールボイスプロジェクトという取り組みをなさっているそうです。
https://camp-fire.jp/projects/view/461050
学校や教育を民主的なものにするため多様な教育を知ってもらい、
教育者の視野が拡がることとあわせ、
当プロジェクトを通じて現場が元気になれるアクションをおこしてゆきたいとの取り組み。
教育者が、自分の想いや良心に従い選択して声をあげたりしていくことを
自分から手放している側面も奪われている側面もあるが、
それを取り戻す必要があるところ、
スクールボイスプロジェクトがその役割を担うことでの
教職員の変化は、子どもたちにも波及効果があるとのお考えでした。